昭和51年02月28日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 切ろうとしても切れない。そういう信心が絶えず、出来ておらなければいけないですね。神の綱が切れたというが神からは切らん。氏子から切るなと。氏子私共が切ろうにも切れない。また迂闊にしておっても、神様のほうがちゃんと繋いでおって下さる。ほっとそう言う事に気付く事がある。もう医者がさじを投げたという病人でも、神様のおかげで助かる。いうならば無常の風はそこまで吹いてきておるのを、向こうのほうへ追い返すというか、追い払われるように、おかげで助かる人があります。
 これは命だけの事ではありません。色々な事でももういけない、もう駄目だという時にはもう、無常の風がそこまで来てるときですよ。ね。だけどこれは人間の命と言う事だけではありません。けれどもそれこそどんでん返しのように、見事なおかげを皆さんが受けておるでしょう。ね、神様はそういうもうこういう運命に極まったと言う様な場合であっても、お取次ぎを頂いてお願いをする。
 金光大神のお徳によって、その運命がまたそこから新たに開けてくるというおかげが受けられるのが、金光教の信心だと教えておられるわけです。そういう尊い神様を頂きながら、ね。氏子から切るような事をするなよと。昨日筑水の信徒会がここで、もたれました。本当に私は合楽の方達は、ああいう研修会なんかは、しかもあれはもう二年に一遍ぐらいしか回ってこんのでしょう。
 ですから私は本当にあのう、昨日はもうここが割れるように多いようにあろうと想像しとったけれども、案外他所からのご信者さん方は多いかったけれども、合楽は大変少なかった。百三十名から全部で。だからならあの寒修行の時ぐらいに、あのほんなら例えば集まっとってご覧なさい。もうこの障子取り払うて、もうそれこそここが一杯になるだろうと私は思いますよ。
 もう本当に合楽の方達が六名でしたかね、お話を次々とされました。そらお話が上手とか下手だとか言う事ははなんだけれども、その内容が皆さん素晴らしいのに、私は驚いただけではなくてそのみぃんな、関連性を持っておったのに驚きました。私は後からの研修午後からの研修の時には、下がっておりましたから、どう言う様な研修があったか分からんけれども、昨日は大体私はお話をする事にはなってなかったです。
 大体私がどうか言わにゃんじゃかなと、私が昨日お食事の時に高橋さんにいうたら、「いいやあぁた、話なはらんでいいですよ。もうどこの教会でん教会長は、御祈念をしなさった後に、ちょっと一口挨拶をしなさるだけですから、あぁた話なさらんで良いですよ。」ちいうから、「あそうのそんなら私は、あ楽だね。」と言うとったんです。だから話すはずはなかったんです。
 ところが昨日はそのまあ全国会長先生と、副会長先生が必ず見えるそうですが、その会長先生がいつも、最後の締めくくりをお話しになるんだそうですけれども、昨日に限って、先生が見えてなかった二人とも。だから、まっ結局私が話せと言う事になったんだそうですけれども、まっいうなら目ん玉に指突っ込むようなお話でしたけれどもです。けれども私がその前に六人の方達の話を聞いておりましたからね。しかもそれはもう一から六まで言うならば、その関連性を持っておった
 。素晴らしいお話の内容であった。だから私だけは素晴らしいと分かる。合楽の者は分かるだろうけれども、他所からきた信者は大変矢張り至難な言葉が使ってある。いわゆる合楽独特のいうならば、言葉とか話しぶりが他所の人には分かるまいと、まあ懸念される所があったから、最後はその事をまたまあ言うなら、噛んで含めるように六人の方達の話の、要点を纏めてお話をさせて頂いたわけでございました。
 それから終わらせて頂いて、また幹部の方達の話し合いがあって、遅うなりました。それからお食事を皆さん差し上げました、その後にまた四、五人、善導寺の渕上先生やら杷木の市川さんやら、このあの宮の陣の方たちやら四、五人のものが残られました。それで審議会?のうちで、またお茶でも差し上げながら、それこそ信心話に花が咲きましたが、ね。そのなかで先生今日のその私が、改式の話を致しました。ね。
 井上さん辺りがもう見事にそのおかげを頂いて、改式のおかげを頂かれた大和さんの話を致しました。けどもどげん考えたっちゃこれからほんなら、新たに起こってくる御取次ぎ信心生活運動の、発足がです。天地書附を基軸にして言うなら自分の周囲に語りかけていくというのが、今度の運動の焦点になるのです。それでその語りかけていかなければならん、その人がです。それこそ神様を拝んだり、御霊様を拝んだりしておるようなことで、それをなら納得させることが出来るかと。
 生死を通して生神金光大神の御取次ぎの働きによって、この世でももちろん助けていただくならば、あの世でも矢張り金光大神の世界で、愈々信心精進をさせて頂くという。そのくらいなものがなくしてどうして人へ伝えて行く事が出来るかというお話を聞いて、成程そうだと思いますという話をしてます。ね。いわゆる杷木の市川さんがもう私はも、それこそ、金光教の信心は永いし、随分本当にもう金光教によって助かってきたけれどもです。改式をする勇気が出ませんち言われた。ね。
 もし私が合楽の信者であったら何時の昔、改式をしとったでしょうと言っておりますよ。横で渕上先生がはあほんなこっちゃんのち言うてから、それに共鳴されました。ね。あれだけほんなら総代、信徒会長だと。お二人ともまあ渕上先生は総代ですし、今度のあちらの御造営の、委員長まで努めておられる。その信徒会長である所の市川さん辺りが、ならああして熱心に信心を、その教会でなさっておられますけれどもです。まあだ改式と言う事になっていない。
 そして金光様の信心な、それは十分に分かっておるというんです。有難い事は。ね。けれどもねけれどもね、どげん思うてもまだ改式は出来んと言う事。何故かというとね、まあ何故かというと、まあ語弊があるかも知れませんけれども、もしそれが合楽の私が信者じゃったら、とうの昔に改式しとったでしょうとこう言われる。渕上先生は本当に共感、ほんなごっじゃんのそうじゃんのと。もうそれこそ分かっといて金光様のご信心は。けれども自分の代次の代なら、教会はどげんなるじゃら分からん。
 まそういう不安なものが、そこにあるから。合楽ならばとうの昔に改式しとっただろうといわれる意味が、私は今日のこの御理解十七節「神の綱が切れたというが神は切らぬ。氏子から切るな。」といういうならば、ね。合楽の場合は切ろうにも切れない一つの、絆のようなものがです。信心全体の上にあると言う事です。なら昨日六人の方達がそれこそ、話し合うたようにですね
 。いうならば現在の合楽示現活動、又は大祓い信行又は、愈々金光大神の世界に住まわなければならないと言う事が、それでも話の内容は違うとったけれども、そこん所を言うなら基軸にしてです。そういう信心に精進しておるという話を、皆がされたです。打ち合わせもなかったです。私は皆さんのどう言う事を話されるかという原稿を出すようにいっとったけれども、それも実は出てないですよ一人も。そういうですものはいつの場合にも、合楽にはあると言う事です。
 もう恐れ入るなあと言うものなら、切ろうにも切れないものがそこにあると言う事ですよ、いつも。そういう事があるだけの事ではない。色々な上においてそれを実感する。それを言うならあの市川さん辺りの場合は、特にこんなしてお参りになりますからそれをよう分かる。私がもし合楽の信者ならば、何時の昔に改式しとったでしょうと言われたのを聞いてです。ね。自分の時代は良いけれども、改式しとってから、子供が信心をしない。または教会が、どげんその、どげなふうになるじゃら分からん。
 それを思うたらです。さあ永年お寺さんにお願いしとった、そのそれをいうならば、お先祖の仏様を、御霊様をです。改式する気にはなれないというのではないかと私は思います。ね。「無常の風は時を嫌わん」ね。けれども、金光大神の道は、その無常の風に時を嫌わすぞと言う事をです。愈々まさかのときに、ね。いうならない命でも助けてもらわねばならんと言った様な時だけではなくてです。
 それが愈々確信出来られる信心を、日々いうならば切ることなく、絶やすことなく続けておらなければならないと言う事でございます。これは私は毎朝ですけれども、ね。天地を拝ましてもらう、祈念をさせて貰う時にです。もう本当に実感ですけれどもね。空気が美味しいです。ここへ出てから、ね、大きく呼吸を致します。そして本当に心から空気の有難さに感謝を致します。そして私の心の中に響いてくる思う事です。これほどしに空気を美味しく、有難く頂いていくならばです。
 もう無病息災私はおかげ頂くなあという気がするんです。ね。なら誰だって生きている以上、空気を吸うとらん者はありゃしません。けども私ほどしにその空気の美味しさとか、又はあのこの空気の有難さと言う事を、本当に心からお礼の申し上げる、次にはそういうものが生まれてくるかというとです。これは私は無病息災のおかげが受けられるなあと言う事でございます。そんな感じがするんです。ね。私はそういう信心が望ましいと思う。そういう信心をしておる限りです。ね。
 それこそ命のあらん限りとでも申しましょうか。寿命の限りをです、生き抜かせて頂くおかげが絶対頂かれるのだと。神が与えた寿命を生き切る者が少ないと、四神様のみ教えの中にあります。ね。その無常の風、ね。に、時を嫌わすほどしの、新たかなおかげを受けられるのが金光教だという意味の事が、この十六節に説いてあると思いますけれども、そういう、まさかと言う様な事じゃなくて常日頃です。そういう確信が段々心の中に頂けていくようなです。
 ひとすくいの水の上にでも、ひと粒のお米の上にでも、本当に神恩報謝の心を持って押し頂く心。目には見えない形にはないけれども、その空気そのものの美味しさが感じれるような。そしてこれをこの様に有難く頂けていくならばです。とても私は病気どんする様な事は、先ずは無かろうとまあ思うのですよ。その思いが毎日毎日重なっていくのですから、おかげ頂かない筈はないと思うですね。
 私は今日は十六節をその様なふうに聞いて頂いた。ね。神の綱が切れたと切れぬのという事でもです。合楽の場合は切ろうにも切られない。もうそれこそ毎日毎日例えなら御理解なんかがですね。本当言うたら毎日の御理解がずうっと続いておるのと同じ事です。それを特に感ずる事がありましょうが。三日間なら三日間を頂かなければ一つのこう何かですね、筋が通ってこないと言った様な時があるでしょう。ね。そういう言うなら有難いお教会にご縁を頂いて、ね。それこそ市川さんじゃないけれどもです。
 もし私が合楽の教会の信者であるならば、もうとうの昔に改式をしとったろう。私はこれは実感だろうと思いましたよ市川さんの。それに大変共鳴された渕上先生も私は実感だと思いますして見ると皆さんはです、ね。それほどに合楽の信心を頂ききってないと言う事になるのじゃないでしょうか。本当にです本当に一つ仏壇やらを、ね。麗々しゅうお祭りをしておるならです。本当に合楽によって助かると言う事がいわば、見極めが付いたならです、ね。人情に捕らわれず本気で一つ改式のおかげも頂こう。
 いうならば今までのいうならば、何と申しましょうかね。それこそ何々様やらお大神宮様やら荒神様やら、ね。本当に一掃してしまわなければ、本当の金光教の信心の純粋なものに触れられません。そこまで行く時にです。今度どう言う事になるかというと、もう愈々切る事は、切るに切られないと言う信心が、私は生まれてくると言う事が有難いと思います。ね。だからそこまでの一つ私は決心と。そこまでのいうならば潔さと言った様なものが信心に要ります。そういう意味で今日は十六、十七節を続けて聞いて貰いました。
   どうぞ。